イギリスでは新型コロナウイルス感染拡大のためのロックダウンが続いており、ウエストエンドの劇場もすべて封鎖されている状況だ。そんななかで、ナショナル・シアターの新しい試み「ナショナル・シアター・アット・ホーム」が注目を集めている。
ナショナル・シアターといえば、過去に上演された作品を世界各地の映画館で上映する「ナショナル・シアター・ライブ(NTLive)」が2009年より開催されているが、今回の「ナショナル・シアター・アット・ホーム」は、自宅隔離・待機している演劇ファンのために、NTLiveで過去に公開された作品を無料配信するというものだ。
4月20日(月)からスタートし、毎週木曜日に1作品ずつ、ナショナル・シアターのYouTubeチャンネルで配信。これまでに、ジェームズ・コーデン主演『一人の男と二人の主人』やレイフ・ファインズ主演『アントニーとクレオパトラ』、ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラー主演の『フランケンシュタイン』などが公開された。また、6月4日(木)には、トム・ヒドルストン主演の『コリオレイナス』が配信されることも発表されている。
今回はナショナル・シアター・アット・ホームにちなんで、本シリーズのなかでも人気が高いベネディクト・カンバーバッチとトム・ヒドルストンの二人に焦点をあてながら、英国俳優たちと舞台の関係について考察してみることにしよう。
ロンドンのウエストエンドといえば、ニューヨークのブロードウェイと並ぶ、演劇・ミュージカルの中心地である。ハリウッド映画・テレビで世界的な名声を集める売れっ子俳優にとっても、ウエストエンドの舞台は、依然として魅力的な場所のようだ。
例えば、トム・ホランドは、2008年のミュージカル版『リトル・ダンサー』でデビューし、その演技で注目された後、映画『スパイダーマン』の主役に抜擢された。
トム・ホランド(舞台『リトル・ダンサー』)
『ゲーム・オブ・スローンズ』のジョン・スノウ役で知られるキット・ハリントンが俳優を志したのは、2004年の舞台『ハムレット』でベン・ウィショーの演技を見たことがきっかけだったのは有名な話だ。
ベン・ウィショー(舞台『ハムレット』)
英国の俳優たちの多くが芝居にこだわるのは何故なのだろうか。映画やテレビでは得られない、役者と観客の間で生まれるケミストリーを舞台で味わいたいということは大いに考えられるが、それだけではないだろう。その理由には、英国の演劇の歴史が関係しているようだ。まずは、簡単に演劇の歴史を振り返ってみる。
英国で演劇文化が華々しく花開いたのは、イギリス・ルネサンス期と呼ばれる16世紀頃。その中心人物が、英国を代表する劇作家のウィリアム・シェイクスピアだ。シェイクスピアは38もの戯曲を書き、ロンドンのテムズ河沿いに彼の作品を上演するグローブ座が建てられた。
17世紀の清教徒革命で劇場が閉鎖されたものの、王政復古で無事復活。ウエストエンドでは劇場が次々とオープンし、コミック・オペラなどが人気を集めていく。19世紀以降も、ギルバート・アンド・サリヴァン、ハロルド・ピンター、アラン・ベネットなど多くの劇作家が生まれ、近年はアンドリュー・ロイド=ウェバーが大ヒットミュージカルを生み出している。
王立演劇学校(Royal Academy of Dramatic Arts)
役者や舞台監督などを育成する教育機関や劇団の歴史も長い。世界的に有名な王立演劇学校(Royal Academy of Dramatic Arts・略してRADA)は1904年に設立。卒業生には、アラン・リックマン、アンソニー・ホプキンス、ケネス・ブラナ-、レイフ・ファインズ、マイケル・ガンボン、イアン・ホルム、ショーン・ビーン、ジェームズ・ノートン、ベン・ウィショー、タロン・エガートン、イメルダ・スタウントン、ジェマ・アータートン、フィービー・ウォーラー=ブリッジなど、英国を代表する俳優たちが名前を連ねている。
また、ロイヤル・シェイクスピア・シアター(Royal Shakespeare Company・略してRSC)は、1875年に設立されたシェイクスピア記念劇場を前身にもち、シェイクスピア作品を中心に、現代劇も手がける劇団である。イアン・マッケラン、ジェレミー・アイアンズ、デレク・ジャコビ、デヴィッド・スーシェ、パトリック・スチュワート、ジュディ・デンチ、トビー・スティーヴンス、デヴィッド・テナントなどがRSCの舞台で活躍してきた。RADAを卒業し、RSCで舞台俳優としてのキャリアを積むのが、英エリート俳優の王道ともいえる。
ロイヤル・シェイクスピア・シアター(Royal Shakespeare Company)
このように、中世に溯る歴史を誇り、古典的・伝統的な演劇を学ぶための土壌が確立されていることが、英演劇界の基盤を支える要素になっている。専門の高等教育でしっかりと古典作品と演技を学んだ俳優にとっては、舞台こそが観客の生の反応が得られ、役者としての力量が試される場なのである。特にシェイクスピア劇は英国演劇の伝統芸であり、シェイクスピア俳優と呼ばれてこそ、一人前の役者とされる空気もある。舞台に出演し続けることが、英国の俳優としての名誉と誇りといえるのかもしれない。
舞台にこだわる英俳優のひとりが、トム・ヒドルストン(『ナイト・マネジャー』『アベンジャーズ』)である。トムは、パブリックスクールの名門イートン校からケンブリッジ大学に進み、古典学を専攻して、ダブル・ファースト(卒業試験で2科目優等を取得)の成績で卒業したエリートだ。在学中からテレビ・舞台に出演、英王立演劇学校(RADA)に進み、数々の舞台に出演。ハリウッド映画に進出し、世界的な人気を集めるようになったが、現在でも毎年のように舞台に立つ。『シンベリン』(2007年)でローレンス・オリヴィエ賞、『コリオレイナス』(2014年)でイヴニング・スタンダード・シアター賞を受賞している。
トム・ヒドルストン (ナショナル・シアター・ライヴ『コリオレイナス』)
また、ベネディクト・カンバーバッチ(『SHERLOCK/シャーロック』『ドクター・ストレンジ』)も同様だ。カンバーバッチは、パブリックスクールの名門ハロウ校在籍時からシェイクスピア劇に出演、その後マンチェスター大学で演劇を専攻し、ロンドン・アカデミー・オブ・ミュージック・ドラマティック・アート (LAMDA)で古典演劇の修士号を取得。1998年頃から精力的に舞台に出演し、『フランケンシュタイン』(2012年)でローレンス・オリヴィエ賞、『ハムレット』(2016年)でワッツ・オン・ステージ賞 最優秀舞台主演男優賞を獲得するなど、舞台での活躍も高い評価を受けている。
ベネディクト・カンバーバッチ(ナショナル・シアター・ライヴ『ハムレット』)
ナショナル・シアター・アット・ホームの一環として、ベネディクト・カンバーバッチが、ジョニー・リー・ミラーとダブル主演し、日替わりでフランケンシュタイン博士とクリーチャーを演じた話題作『フランケンシュタイン』を私も鑑賞した。映画監督のダニー・ボイルによる秀逸な演出、役者たちの鬼気迫る演技、美しい舞台演出、こだわりのカメラワークなど、2時間があっという間に感じられる至福の時だった。自宅に居ながらにして、こんな素晴らしい舞台を見ることができるのは、嬉しい限りである。
そして、いよいよ、トム・ヒドルストン主演の『コリオレイナス』が登場。6月4日午後7時(現地時間)から配信スタート、1週間限定で公開される。トムお得意のシェイクスピア劇がじっくり堪能できる機会なのでお見逃しなく。日本語字幕はなく、英語字幕のみなので、あらかじめストーリーを予習しておくとよいだろう。また、ナショナルシアターを支援するための寄付も受け付けている。
トム・ヒドルストン (ナショナル・シアター・ライヴ『コリオレイナス』)
コロナウイルスが終息して、劇場や映画館にでかけることが出来る日が、1日も早く訪れるのを心待ちにしながら、とりあえずは家でゆっくりと、英俳優たちの演技を楽しむことにしよう。
◆ナショナル・シアター・ライブ公式サイト
https://www.nationaltheatre.org.uk/nt-at-home/
◆ナショナル・シアター・チャンネル
https://www.youtube.com/user/ntdiscovertheatre/
今後の配信予定
『欲望という名の電車』
英国時間:5月21日(木)午後7:00~5月28日(木)午後7:00
日本時間:5月22日(金)午前3:00~5月29日(金)午前3:00
作:テネシー・ウィリアムズ
演出:ベネディクト・アンドリュース
出演:ジリアン・アンダーソン、ベン・フォスターほか
『コリオレイナス』
英国時間:6月4日(木)午後7:00~6月11日(木)午後7:00
日本時間:6月5日(金)午前3:00~6月12日(金)午前3:00
作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:ジョシー・ローク
出演:トム・ヒドルストン、マーク・ゲイティスほか
(文/Yoshie Natori)
Photo:トム・ホランド(舞台『リトル・ダンサー』)©David Scheinmann/ベン・ウィショー(舞台『ハムレット』)© Geraint Lewis/トム・ヒドルストン©Maurice Clements/Famous/『コリオレイナス』(C) Johan Persson/ナショナル・シアター・ライヴ2020 (C) 2014-2018 Culture-ville, LLC/『フランケンシュタイン/博士』版 『フランケンシュタイン/怪物』版(C)CatherineAshmore/『欲望という名の電車』(c)Johan Persson/「ナショナル・シアター・アット・ホーム」© National Theatre/ベネディクト・カンバーバッチ©JHMH/FAMOUS/ジョニー・リー・ミラー© NYKC/FAMOUS