『ジョーカー:フォリ・ア・ドウ』トッド・フィリップス監督インタビュー「普通の続編なら作らなかった」

孤独だが心優しい男が歪んだ社会の狭間で“悪のカリスマ”へと変貌していく姿を描き、アカデミー賞で主演男優賞を含む2冠を獲得、世界興行収入(約1500億円)はR指定映画史上最高記録(当時)を樹立した2019年の映画『ジョーカー』。その完結編となる『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が、10月11日(金)より全国公開となる(日本語吹替版・字幕版同時上映<Dolby Cinema/ScreenX/IMAX>)。それに合わせて、トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス(アーサー・フレック/ジョーカー役)、レディー・ガガ(リー役)のインタビューを3回に分けてお届けしよう。

「僕たちが忠実に守っているのは、映画のリアリティ」

――あなたは以前のインタビューで、レディー・ガガは最もシンプルで、それと同時に最も複雑な人だとおっしゃっていましたが、彼女のどこがシンプルで、どこが複雑なのでしょう?

「僕が実際に言ったのは、彼女は最も複雑でない、複雑な人だということだったと思う。彼女はとても大きな人生を送っていると人は考えるものだ。みんなが知っている有名な俳優がいて、レディー・ガガのような超越的な人もいる。名声は演技を超える。彼らは別の意味で世界的に有名だ。それには多くの複雑なもの、100人のチームや警備といったものが付随すると思うだろう? もちろんそういう複雑なものも多少はあるが、私が驚いたのは、俳優としてそこにいる時の彼女は複雑ではない、ということだった。この時の彼女は、マディソン・スクエア・ガーデンのステージに立ち、3万人の観客を前に歌うためにそこにいるわけではない。俳優として登場する時の彼女は、複雑ではないんだ。彼女に関することは私が映画のために少し神経質になっていたことだったので、先の発言は実は褒め言葉なんだよ(笑) 分かるかな?」

――前にお話を伺った時、「ほかのフィルムメイカーたちと同じように、僕もどんな映画を作る際にも、世界で起きていることの影響は受けざるを得ない」とおっしゃっていましたが、この作品を作っていく中で最も影響を受けていた事柄は何だったのでしょう?

「多分、前回の僕が言いたかったことは…腐敗という概念はあらゆる形で世の中に存在しているが、僕たちの映画では、司法制度や刑務所制度などの腐敗、その他もろもろの腐敗を描いている。これは実際にはエンターテインメントの腐敗を示している。現代の世界では、少なくともアメリカでは、殺人犯の裁判がテレビで放映されることがエンターテインメントなんだ。アメリカでは、二人の大統領候補の討論会はプロレスの試合として売られている。すべてがエンターテインメントである時、エンターテインメントはどうなるのか?(笑) 僕が言いたかったのはそういうことだったんだと思う」

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

――この作品には、ミュージカル、法廷劇、毒のあるラブストーリーといった要素があります。これらの異なるスタイルをどうやって同時に扱えたんですか? もしかして映画の中にちょっとしたカオスをもたらしたかったのでしょうか?

「僕にとっては、それが映画作りというものだ。つまり、いつも一つのことだけをするわけではない。僕にとって映画の何が楽しいかというと…個人的に言えば、この映画は僕がこれまでやってきたこととは一線を画すものだった。これまでやってきたこととは違うという意味で、チャレンジングでもあった。ホアキンとレディー・ガガにとってもね。でも、“どうやってやったの?”と言われたら、それがこの仕事の本質なんだ。最終的な監督の仕事は、トーンを提供すること。監督がやる他のすべてのことを取り除いたら、主な仕事は映画のトーンを担当することなんだ。そしてこの映画はとても複雑なトーンを持っている。僕にとっては、そこが面白かったんだよ」

「もし『ジョーカー』1・2作目を合わせて観たら――これらの映画が好きでも嫌いでもいいけれど――僕たちがある意味、忠実に守っているのは、映画のリアリティだということが分かってもらえると思う。現実の世界で起こっているように感じることなんだ。だから現実の世界で“死んだ”というのは“死んだ”ということ。突然稲妻が落ちてきて…というような映画ではない。ホアキンと僕にとっては、1作目から、そしてこの2作目も、すべてが非常に現実的なレンズを通して描かれることがとても重要だった。だから1作目では、なぜジョーカーが白いメイクをするのかを説明するために、彼をピエロとして登場させた。(原作の)コミックでは、ジョーカーは酸の入った桶に落ちた影響で顔を白く塗るようになる。でも、それは僕たちにとってリアルではない。もし本当に落ちたのなら、そんなことにはならないのだから。つまり、この2作品では死も含めたすべてが現実の世界のレンズを通して描かれているんだ」

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

――冒頭のアニメーション部分で、ロバート・デ・ニーロの写真が描かれているのはなぜですか?

「なぜなら、繰り返しになるけど、すべてはエンターテインメントなんだ。だから、殺人事件や(1作目でデ・ニーロが演じた)マレー・フランクリンを殺した殺人犯を祝うために冒頭をカートゥーンにした。1作目でアーサーが起こした連続殺人事件を受けて、テレビ映画が作られたどころか、彼を題材にしたカートゥーンまで製作された。僕たちフィルムメーカーはそのカートゥーンを見つけて映画の冒頭に置いた。あらゆるものがエンターテインメントであることから、カートゥーンも作られた。だからデ・ニーロが出てくるんだよ」

いわゆるミュージカルと本作が異なる理由

――音楽の選択、歌の選択について少し話してもらえますか?

「アーサーが子どもの頃、母親が彼のためにどんな曲をかけたか、あるいは彼らが暮らしていたアパートの周りでどんな曲がかかっていたかを考えた。彼の青春の一部だった歌はどんなものだろうかとね。僕が幼い頃、母はいつもサイモン&ガーファンクルやジョーン・バエズの曲をかけていたが、アーサーは僕よりも古い時代だ。多分覚えていないだろうけど、1作目の中でアーサーが母親をお風呂に入れているシーンでは、ラジオからローレンス・ウェルク楽団が流れる。母親はクラシックを聴く人だったんだ。そこで2作目に登場する曲のいくつか、『Bewitched』や『For Once in My Life』は、アーサーが母親を通して聴いていそうなものにした。そして幻想の中で演奏される曲のいくつかは、ほかのミュージカルと同じように、シーンの下で何が起こっているのか、または登場人物の心の中で何が起こっているのか、そんな感覚を呼び起こすようなものにしたんだよ」

――本作はミュージカル要素があり続編でもありますが、あなたにとって『ジョーカー』がどのジャンルに定義されるかは重要ですか?

「いや。なぜなら、僕はそれを悲劇だと思っているから(笑) 音楽が入っている悲劇なんだ。ミュージカルじゃないわけでもないけどね。先月受けた別のインタビューで“ミュージカルじゃない”と言った気がするけど、その理由は、僕の経験によれば、ミュージカルというものは観終わった後、観始めた時よりも幸せな気持ちになるものだけど、この映画を観た後で幸せな気持ちになるかは分からない。だから、映画の曲を口笛で吹きながら(映画館から)出てくることになるよと、人々を騙すようなことはしたくなかった。恐らくそんなことは起きないだろう。だからこそ、この映画がどんな映画なのかを説明したかった。僕自身にとってジャンルはあまり重要ではないけれど、『ジョーカー』両作品は僕にとっては悲劇だよ」

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

――レディー・ガガとの仕事についてもう少し話してもらえますか? 彼女の魅力や凄みはどんなところだと思われましたか?

「彼女が主演した『アリー/スター誕生』のプロデューサーだったので、彼女のことは知っていた。(フィリップス監督と何度もともに働いている)ブラッドリー(・クーパー)と一緒に仕事をするのを見て、彼女がどれほど素晴らしいかを知った。でも『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』はそれとはまったく違う映画だし、ホアキンもブラッドリーとはまったく違う俳優。彼女が、役柄として、またホアキンの周囲で、弱さを出せるかどうか少し心配だった。彼はある意味、もっとやりにくい相手だからね(笑) さっきの話に戻ると、彼女は今まで一緒に仕事をしてきたどの俳優よりも伝説的だ。大物俳優と仕事をしたことはあったけど、彼女のような世界的スーパースターと仕事をするのはまた違う。そんな彼女が素早くそういうものすべてを手放し、無防備になれたことには驚いた。ホアキンと僕は、いつもその話をしていたよ。それはさておき、僕が“この音はおかしい”とか“別のキーで歌って”と彼女に言うことは決してない。なぜなら彼女は音楽に限りなく詳しいのだから。でも、彼女が学んだそうした音楽的なテクニックの一部を手放さなければならないこともあった。なぜなら、彼女の演じるリーが幻想の中でなく映画の中で実際に歌っている時、リーはプロの歌手ではないから。そういう時に“リーになるために、もっと感情に集中しよう、テクニックはあまり必要ない”と伝えることはあったし、彼女はそれに合わせて演技することができた。これは恐らくプロの歌手にとっては想像以上に難しいことだと思うよ」

――アーサーは、一般的なイメージのジョーカーに比べてもっとナイーブですよね。

「僕たちのアーサーはいつもナイーブだった。この映画はアイデンティティについて多くを語っていて、人生で一度だけという愛をついに見つけたのに、その相手が実は自分の分身を愛していたとしたらどうなるか、ということを描いている。(その分身は)外界が自分に課したものであって、自分はその通りに生きることができない。それはどのようなものなのか? 彼は分身としての姿を維持しようとする。なぜなら、この(分身の)中にいたいから。でも、ある時点で続けることができなくなるんだ」

1作目が『ザ・ジョーカー(The Joker)』ではない理由

――この作品の結末についてあなたの意見を聞かせてください。

「この作品を2回観たら、僕が言いたいことに気づくかもしれない。僕たちがこの映画についていつも話していることの一つは、1作目が『ジョーカー(Joker)』と呼ばれているということ。『ザ・ジョーカー(The Joker)』とは呼ばれていない。ホアキンと僕が1作目のかなり早い段階で話したことは、“彼がジョーカーか分からないし、彼がジョーカーになる人のインスピレーションなのかどうかも分からない”ということだった。それは、この映画をどう観るかにかによる。あとは、観る人の判断にお任せするよ。バックグラウンドでは何かが起きているんだ」

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

――今回、ある意味、異なる暴力の描き方をすることについて考えたのでしょうか? 1作目に対する反応として、この作品を作ったのではないということは知っていますが、いろんな意味で誤解している人もいると思います。

「ベネチア国際映画祭で僕が言ったことは本当だよ。あの質問は、まるで映画全体が1作目の反響に対する反応であるかのように投げかけられたが、答えはノーだ。映画全体が単なる反応であるものを作るには、映画作りは難しすぎる。もちろん、前作のいくつかの反響に対する反応も含まれている。肯定的な反応に対してさえもね。人々が映画にどんな意味を持たせたか、ということとかね。ある人たちは、世界中でジョーカーの仮装をして抗議活動を行ったりした」

「でも、暴力について話す時にもっと重要なのは、僕たちは1作目で、暴力に関してとても責任感を持っていると思っていたことだ。というのも、僕たちは、暴力の現実世界での意味を示しているつもりだったんだ。誰かを撃てば、その人は撃たれたように見える。血が流れ、死んでいく。そういうことなんだ。でも、それが違うように捉えられた。“これは酷い暴力描写だ”というように。すべては、リアルな暴力の描写だった。だから、それに対する反応は、アーサーがゲイリー・パドルズ、あの素晴らしい俳優リー・ギルを反対尋問するシーンに集約されている。あの場面でゲイリーは、あの時のことがトラウマになって、今も仕事に行けず夜も眠れないと語る。暴力を経験した人々に何をもたらすのかを見せているんだ。それは重要なこと。この種の映画で、そういうことがいつも描かれるわけではない。“オッケー。それに反応して、僕たちが暴力の現実世界への影響を見せる理由を見せよう。そして、そういう暴力を見ることの現実世界での意味合いを伝えよう”ということだったんだ」

――この映画の中で、ほかに1作目への反応だと思うことはありますか?

「たくさんのことがあると思う(笑) ソフィーが証言の中で言っていることもね。彼女は映画についていくつかのことを言っている。映画については何も言わずに、ね(笑) こういう話をするのは楽しい。テレビの5分インタビューより長いから好きなんだ」

「1作目に登場した色が多く引用されている」

――この映画であなたが選んだ色の使い方について教えてください。

「彼が目を覚ますまでは、ビジュアル的には1作目と同じで、美しいけどちょっと憂鬱なんだ。彼が彼女を見て、いわば生き返るまではね。そして、彼の人生が変わる最初の手がかりは、あの傘。あの傘は、たとえ2度見ても気づかないかもしれないが、(1作目で)マレー・フランクリンの(番組の)背後にあったカーテンの色なんだ。この色はよく出てくる。アーサーとリーが幻想の中でソニーとシェールみたいになっている時にも使われている。僕たちの映画における新しい色の始まりなんだ。マレー・フランクリンから非常に多く引用されているよ」

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

――この作品の脚本を書いた時は、音楽が先ですか? それともストーリーが先ですか?

「ストーリーが先だ。率直に言って、脚本を書き始めた時は、この映画にこれほど多くの音楽が入るとは思っていなかった。ミュージカルになると思って書き始めたわけでもない。文字通り、書き始めたら音楽が出てきたんだ。だから、ストーリーが先なのは間違いない」

――歌ったり踊ったりすることについてどうやってホアキンを説得したんですか?

「ホアキンは挑戦が大好きだ。もしこの映画が、人々が思うような展開の直接の続編のようなものだったら、あるいはそういう世界だったら、彼はそんな続編は作らないだろう。ホアキンは、1作目と同じように、失敗に対して神経質になりたいんだ。だから僕はそうしただけ。そういうことだよ」

――最後の質問です。バットマンの世界でほかに手がけてみたいキャラクターは?

「(笑) あの世界で仕事をするのは、僕がやりたいことではなかった。僕は悪役が好きだから、ジョーカーは深く掘り下げるには素晴らしいキャラクターだった。でも、あの世界にほかに、“おお、今度はあれをやるべきだ、これをやるべきだ”と思うようなのはない。僕がやりたいことじゃないんだ。僕にとってこの映画は、映画作家として、あの世界の終わり。コミックの世界の終わりだ。そういう映画は大好きだし、とても素晴らしい作品もあるが、僕にとってはこれで終わりなんだ。ありがとう」

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は10月11日(金)全国ロードショー。(海外ドラマNAVI)

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