「そこまで言っちゃう?」と思ったときにはもう笑っている。いや、笑わされている。
ケーブル局FXでシーズン2を放送中の『Louie』には、他のコメディ番組にはない鮮烈な面白さがある。
それは、日頃なかなか口にできない本音の部分を、敢えてさらけだすことによって起こる笑いだ。時には観ているこちらも恥ずかしくなり、場合によっては痛みを伴うが、それと同時におさえきれない笑いがこみあげてくる。『Louie』が編み出すシチュエーションやセリフがあまりにリアルで、共感せずにはいられないのだ。
『Louie』をクリエイトしているのは、人気スタンダップ・コメディアンのルイス・C・K。
彼はこのコメディで制作・脚本・演出・編集を手がけるのみならず、主演もこなしている。といっても、バツイチで二人の娘がいるNY在住のスタンダップ・コメディアンというメインキャラ(その名もルイ)の設定は、彼のリアルライフほぼそのままなので、要はC・Kがドラマの中で彼自身を演じているといっていい。
コメディアンが自身の実生活をモデルに作ったコメディシリーズといえば、90年代を代表するシットコム『となりのサインフェルド』や、現在もHBOで放送中の『ラリーのミッドライフ★クライシス』などがある。
これらのコメディでは、1話の中で複数の異なるエピソードを並行して進行させ、結末でそれらを結びつけてオチをつけるという、虚構性の高いストーリーテリングが特徴。うまいこと自然にオチが結びつけば笑いに相乗効果が期待できるが、強引に融合させるケースも多く、現実感が失われて白けてしまうことも少なくない。
それに対し、『Louie』ではルイ一人の行動を淡々と語り、それが終わればまたルイの別の行動を追うという極めてシンプルな構成。
1話の中に、関連のない2つ以上のエピソードが語られることもある。下手にストーリーに拘泥せず、ひとつひとつの笑いの質にこだわった結果うまれたスタイルなのだろう。シングルカメラによる撮影と、フェイクの笑い声を入れないやり方もこのスタイルによくマッチしており、さらにリアル感が増している。
『Louie』が作り出す笑いのパターンは様々だが、強いて代表的なものをひとつ挙げるなら、逆境やプレッシャー下にある人(=ルイ)が、自分の欲しいものを求めてあがき、その結果得たものが自分の望んだ形ではなかったときに起こる居心地の悪さ、そしてそれに伴う可笑しみや哀しみを描く、というパターンがある。日本のお笑いに例えていうと、かつて『ダウンタウンのごっつええ感じ』でやっていたある種のコントに、少し性質が似ている。
腹を抱えて笑うほどおかしいのと同時に、どこか哀しいのだ。
とはいえ、ダウンタウンのコントでは「トカゲのおっさん」や「カッパの親子」などのシュールな設定が多かったのに対し、『Louie』はきわめて現実的なシチュエーションで物語が進行する点が大きく異なる。
ルイの求めるものが愛娘の喜ぶ顔だったり、デートの相手とベッドインすることだったりして、題材が身近なので、より感情移入しやすい。腹が出て、髪も後退したバツイチの四十過ぎのオッサンが、日常の観察から生み出す笑い。自虐的なネタもふんだんに盛り込みながら、しかしC・K自身は決して卑屈でもネガティブでもなく、むしろアグレッシブだ。
『Louie』には彼のスタンダップのバフォーマンスも断片的に盛り込まれるが、彼の舞台での口の悪さと下ネタの多さには驚かされる。彼のトーク中のセリフがピー音でかき消されてしまうこともショッチュウだ。
それはまるで、20年以上前に東京ローカルで深夜に放送されていたころの『ガキの使いやあらへんで』のフリートークを彷彿とさせる 。その過激さにちょっと引きながらも、つい笑ってしまうのだ。(先ほどから日本のお笑いでの比較対象がダウンタウンばかりになってしまって恐縮だが、なにせ似ているのだから仕方がない)
舞台のみならず、『Louie』のエピソード自体にも下ネタは満載で、C・Kは視聴者を笑わせるためには手段を選ばない。
同番組が今年のエミー賞で脚本賞と主演男優賞にノミネートされながら、なぜか作品賞にノミネートされていないのは、ひょっとするとそのあたりに理由があるのかもしれない。作品賞を与えるには品がなさ過ぎると思われているのではないだろうか。
『Louie』のシーズン3がFXで継続されることが正式に決まったというニュースを、私は8月6日、C・K自身によるツイートで知った。品の良し悪しはともあれ、今一番おもしろいコメディだと思うので、来シーズンも観られるとわかって喜んでいる。
なにしろ、面白いからといってそれが継続するとは限らないこの世の中だ。かつては毎週オンエアされていたダウンタウンの新作コントやフリートークも、最近では滅多にお目にかかれないのだから。私としては、今が旬のこの『Louie』が、早く日本でも放送されるようになることを願うばかりである。