アメリカの監督や演技コーチと話していると、よく耳にする
言葉がある。
"subtle""calm"だ。

辞書を引いてみると、
"subtle"には、微妙な、とらえがたい、繊細な、鋭敏な、とあり、
"calm"は、静かな、穏やかな、落ち着いた、とある。

どちらにも、"冷静に、抑制の利いた"という意味合いが含まれている。
逆の言い方をすれば、
「大袈裟に、オーバーにやるな!」
と言っているに他ならない。

実は、このコンセプトがアメリカで見られる演技には長年生きている。普段、何も考えずに観客や視聴者が楽しんでいる演技には、いくつかの手法やアプローチに段階や差がある。

一言に"演技"と言っても、どこで見るか、どんな状況で見るかは、皆さんが見ているメディアの大きさや距離感によって変わる。

1.舞台で見る
2.テレビで見る
3.映画館で見る

さらに、舞台には、客席が100の劇場、300の劇場、1000の劇場などの違いがあり、映像作品でも、テレビと劇場用スクリーンでは迫力が違う。家庭では、パソコンで見る人もいれば、ホームシアター用の大型モニターで見る人も増えているはずだ。

さて、見る方法にこれだけの差があるのに、俳優はどんなスケールの作品に対しても常に同じように演じていればそれでいいのだろうか?

もちろん答えは明らか。
「同じではダメ」である。

たとえば、舞台。
100人の劇場であれば、悲しい場面で、主演女優の瞳が潤ませただけでも、ほんの少しだけ息が乱れただけでも、 その心情が観客には判るだろう。しかし、1000人級の劇場なら、そっと涙を浮かべただけでは伝わらない可能性がある。

そういう場合には、目頭や顔を押さえたり、肩を落としたり、膝まづいたり、身体や声を震わせたりというテクニカルな技術(見せ方の工夫)が要求される。大きな舞台なら、何割か強めに発声することも必要だ。

舞台出身の俳優たちが「巧い」と言われる所以は、こういう工夫と技術に裏打ちされたキャリアを積んで生きているからだ。

しかし、いわゆる "舞台の芝居/演技" がキャリアの壁になることもある。それらの俳優がテレビや映画に進出した際に、そのスケール(画角)の違いに適応できなかった場合だ。

映像の演技には、バストアップ(胸から上)やクロースアップ(顔に思いきり近づいた)のショットがある。アメリカの映画やテレビドラマには特にクロースアップが多用されているが、特に俳優の表情に近く寄った画を撮っている場合、テクニカルで余計な工夫は観客にとって邪魔になってしまうことがある。

必要になってくるのは、"真実味のある感情"だ。
それは、普遍的な表現として、世界中の観客の胸を掴み得る。

人は、心の底から悔しかったり、恥ずかしかったり 、悲しかったりしたとき、どんなにそれを他人に知られたくないと思っても隠せない。肌は紅潮し、唇は細かに震え、目は充血する。それらはクロースアップなら十分に伝わる。

特に、映画館の巨大スクリーンなら、その威力は絶大だ。小手先の技術は要らない。表情を大きく動かさなくても、まばたきを一度するかしないかだけでも、感情が観客に伝わる可能性がある。

アメリカでも、映画やテレビが発達し始めた初期は、大仰な芝居スタイルで俳優たちは演じていた。現代のように、首もとに忍ばせる小型のマイクが無かった時代は、セットの真ん中の家具や花などの小道具にマイクを隠し、俳優はそのセンターのマイクに向かって適度に声を張らなければならなかったのだ。

では、録音技術が進化した年月が、アメリカの俳優たちの演技をも進化させたのか?

いや、そうではないのだ。

アメリカには、古い伝統的なスタイルの芝居から、リアルで真実味のある新たなスタイルへと、現代演劇に "革命" が起きた時代がある。

1940年代後半にエリア・カザンやリー・ストラスバーグらが中心となって一世を風靡したアクターズスタジオという名門演技学校をご存知だろうか。

モスクワ芸術座の演出家、スタニスラフスキーが構築した演技システムをアメリカの俳優たちに応用した、『メソッド演技』という方法論を確立した。その演技法の核となったのは、俳優の実人生での微細で深い体験を、演じる役柄の心理と表現に反映させること。理論を体現するのは容易ではなく、この学校に入門し正規メンバーとして認められるのは非常に狭き門だった。

「メソッド」を学んだマーロン・ブランド、アル・パチーノ、メリル・ストリープ、ロバート・デニーロ、ダスティン・ホフマンらは、自然体でリアリティのある演技で、50~60年代のハリウッドを席巻した。彼らの多くは今でも深く尊敬される俳優たちであり、アメリカの現代演劇の形を決定づけた、といっても過言ではないだろう。現在のエンターテインメント業界では、このスタジオのメンバーでなくとも、"真実" を追求する演技は「アメリカの基準」になっているのだ。

この "革命" が演劇界にあったのと無かったのでは、大きな違いがあると言える。

たまに日本に帰国して、テレビを眺めていると...その2に続く