俳優たちと作品の命運を握る、重要なポジション。キャスティング・ディレクターという「仕事」〈後編〉

今回のコラムの前編で、キャスティング・ディレクターたちは、俳優たちの「未来」と、作品との「類い稀な縁」を"direct" している(導いている)のかもしれないと書いた。

キャスティング・ディレクターたち(※ 以後、CDと呼ぶ)は、目星をつけた俳優を、プロデューサー/監督らに紹介する、

つまり、「恋愛」で言えば"キューピッド"的な役割を果たしていることになる。

彼ら/彼女らの「審眼」と「働き(職)」がなければ、僕ら俳優の(オーディションなどの)テストの演技が、一線級の監督たちの目に触れることは、通常は無い。

なのでCDの「眼」に留まることがまず第一の壁。

しかし、その"壁"とは、逆に言えば、説得力のある演技と存在感さえ示すことが出来れば、Aリスト級(世界市場のトップを走る)クリエーターたちに「直接見てもらえるチャンス」が誰にでも平等に与えられる現実が在るということだ。

俳優たちにとっては、非常に有り難い審査システムが目の前に用意されている、ということに他ならない。

前述したドキュメンタリー映画『Casting By』の上映後に催されたQ&Aで、二人のCDたち:エイプリル・ウェブスター(『LOST』『FRINGE/フリンジ』『スタートレック』など、主なJ.J. エイブラムス作品群のキャスティングを担当)とバーバラ・マッカーシー(エミー賞受賞作『ケネディ家の人々』を手がけた)は、こう言った。

「私たちは、俳優たちの味方よ!俳優の側に立っているの」

CDは、審査する側ではあるが、俳優にとって立ちはだかる"壁"や"敵"ではない、と彼女たちは語る。光る何かを見出したら、彼ら/彼女らはしっかりと応援してくれるのだ。

それだけに、俳優たちは、CDたちとの出会いの数分間を決して無駄にはできない。
出会いは一期一会であり、(仮に何回かオーディションに呼んでくれたとしても)一番最初の好印象/悪印象を塗り替えることは容易ではないからだ。

誤解されないように書くが、「好印象」とは常に笑顔でいるべき! とか、親切であれ! とか、フレンドリーに振る舞ったほうがいい! とか、快活に挨拶しましょう! といったようなマナーのことではない。それらもおそらく大事なことだが、最優先とはいえない。

俳優が提供すべき、最も大切な「好印象」とは、
説得力のある演技と高いプロフェッショナリズム、その2つに尽きる。
もし、CDの心にそのような"印象"を刻むことが出来れば、
たとえ最初のオーディションで敢えなく作品に起用されなかったとしても、
次の機会に、そしてまた次の機会に、呼んでくれるようになるのだ。

CDたちにとっては、
「質の良い俳優たち」をいかに多く知っているか?
どれだけ監督やプロデューサーらに対して、それらの魅力をプレゼンできるか?
ということが、生命線なのだから。

さて、ここで少しだけ、CDたちの"外国人俳優に対する眼の厳しさ"
ついて触れたいと思う。

ハリウッドのCDたちに認められるために、僕たち外国人俳優にとって、
〈説得力のある演技(※母国語も含む)〉と〈高いプロフェッショナリズム〉
に深く関わる、もう1つの条件がある。

それは、《英語セリフの質》である。

ハリウッドに拠点を置く、多くの外国人俳優たちにとって、これが実に高い壁となる。

その「質」とは、つまり、発音の明瞭さ/イントネーションの自然さ/(芝居の流れや作風を崩さない)適度なリズムと速度、そして説得力ある重み、といった要素。これらのポイントをクリアしなければ、北米の観客たちが、英語での演技を違和感や苦労無く見れる(聴ける)レベルに達しないからである。

数年前、ある大人気ドラマのオーディションで、演技の後に、たまたま英語の話題でCDと話し込んだことがある。

その時に彼が言った言葉は忘れられない衝撃だった。

「ほとんどの外国人俳優たち(※この時はアジア系の役柄のテストだった)の英語はアクセント/訛りが強過ぎて、何を言っているか聴き取れないんだよ...」

だとすれば、その演技は当然、「"映像(特に音声)商品"には向かない」とジャッジされてしまうのだ。

別のキャスティング担当者はこう語る、

「適度な"訛り"は、役柄によって魅力的に映る場合もある。しかし、訛りが強過ぎると、セリフを読み始めた瞬間、審査する側は集中できなくなる」

そうなると非常に高い確率で、

「ありがとう、よかったわ。お疲れさま!」

とあっけなく声をかけられ、たった1回のテストで終了となる。
(※会心の出来映えで、1回きりで終わらせるケースも当然あるが)

英語に、"slight accent"という言葉がある。
たまにオーディションの募集要項に「slight accentが必要」もしくは「slight accentもOK」と書かれていることがある。しかし、この"slight"とは、"わずかな"とか"弱い(繊細な)"といった意味であり、「そこそこ訛りがあっても大丈夫」という意味では決してない。

その訛りの強さは、役柄によってなるべく少なくしたり、少し足してみたりのさじ加減ができることを俳優は頻繁に求められる。

よって、母国語への「さじ加減」が自在にできるアメリカ人俳優たち(ネイティヴ)が、言語的にかなり有利になるのだ。
僕ら日本人俳優が、ドラマや映画の役柄設定(英語セリフが中心になるケース)によっては、"日本人"の役柄であっても、オーディションで英語ネイティヴのアジア系俳優に勝ちきれないことがあるのは、そういう背景があるからだ。

だからこそ、《英語セリフの質》が、
ハリウッドの市場でCDたちが、僕らをクリエーターたちに推せるか推せないかの、第3の条件(※第3とはいえ、絶対不可欠な要素!!)となるのである。

この3つの要素を高いレベルで演技テストで披露できた時、CDたちは、

「ありがとう、よかったわ。お疲れさま!」という紋切り型の挨拶ではテストを終わらせず、

「次は、こんな感じでやってみてくれる?」

と、2テイク目、3テイク目の時間のチャンスをくれるのだ。
なので、人によって、1分ほどで会場をあとにする俳優もいれば、
15分くらい審査の部屋から出てこない俳優もいる。

何度も演じさせられることは、
"やり直し"を求められているのではなく、それは"期待"の表れだ。
CDの気持ちや顔色(眼の色)が判れば、
何度演じさせられても、強い気持ちでいられる。

またCDたちは、オーディションの場では、俳優たちの欠点をいちいち指摘はしない。

それには2つの理由がある。

1つ目は、そのための時間が彼らには無いこと。
ある役柄に対して、数十人、時には数百人と見定める場合、
「この俳優は違うな...」と感じたら、すぐに去ってもらうしかないのだ。

2つ目は、明からに酷いレベルの演技だったりしても、
「ありがとう、よかったわ。お疲れさま!」というのが、CDたちの最低限のマナーであり、気遣いだということだ。

俳優それぞれの技術レベルに差があっても、(おそらく)どの俳優も真剣に練習を重ねて来ている。挑んだ姿勢に対しては、否定するようなことはあまり言わないのだ。

オーディションの会場に入ってくる俳優たちは多くがすでに緊張している。
CDが偉そうな空気や態度を見せてしまうと、俳優たちがが余計に緊張し、
最高の状態を披露できないことを、プロのCDたちはよく分かっている。

だから、CDたちは極力僕らをリラックスさせようと、
配慮する努力をしてくれているのだ。

しかし、ここに(俳優にとっての)落とし穴もある。
欠点を言ってはもらえず、必ず「GOOD!THANK YOU!」の一言でオーディションが終わってしまうことで、

「演技も、英語も、ある程度は上手くいった」

と、過信または安心してしまうことだ。
なので、そこはCDたちの優しさに甘えることなく、自分の《商品としてのクオリティー》に徹底的にこだわり、常に見つめることが必要だ。

誰も言ってはくれない。
だから俳優は、

「自分で、磨き上げるしかない...」

その意識こそが、まさに〈高いプロフェッショナリズム〉にもつながると言えるだろう。

話を戻そう。

映画『Casting By』の上映後のQ&AでCDたちが明かしたエピソードのいくつかが興味深かったので、ご紹介したい。

数年前、エイプリルが『パーソン・オブ・インタレスト』をキャスティングするにあたり、ジム・カヴィーゼルに白羽の矢が立った際、まず彼女が取りかかった仕事は、ジムがドラマシリーズの主演を引き受けるかどうかを彼のエージェントと相談することだったそうだ。

製作陣の意中の俳優ジムのスケジュールが空いているかをただ確認するだけではなく、それまで、映画界だけで仕事をしてきたジムが、テレビの枠に大きく足を踏み入れることを望むのかどうか?そのことをエイプリルは慎重に交渉した。そうい う交渉経緯を、彼女は大切に感じているという。

CDたちの、"俳優への気遣いの仕事" のプロセスがあるからこそ、斬新な配役の人気番組が次々と生まれていると言っていいだろう。

トークの最後に、ある観客がこんな質問をした、

「キャスティングの仕事をしていて、どんな部分が誇らしいですか? 良い部分は?」

思いを巡らせてから、バーバラが言った。

「"役が決まったわよ!"と、最初に俳優に言えるのは嬉しいわ。その人に、"職"をもたらすことができるなんて、素敵でしょ!?」と。

次に「逆に一番イヤな部分はどんなことですか?」と観客が聞くと、

「子役の俳優たちを3次テスト、4次テストに呼んで、審査の途中で、"もう君は次は来なくてもいいの、ありがとう" って、外れたことを告げるときね」

と心の内を語ってくれた。

このシンプルな答えが、彼女たちが「俳優の味方」であることを物語っている。

もちろん、CDたちの全員が全員、俳優に対して、いつでも親切で当たりの良い態度で接してくれるとは限らない。
広い業界の中では、オーディションの審査中に笑顔は見せず、とても冷静な厳しい表情で演技を要求してくるCDにも出くわしたりする。

でも、それも

「この俳優の、ベストの状態を引き出したい!」

という彼ら/彼女らの真剣さの表れであるに違いない。

CDの存在は俳優にとって、立ちはだかる"壁" ではなく、次なるステージで、製作陣に出会うための"発射台" である。

自分の演技がイメージ通りに巧く出来たかどうか? そればかりを考える『自分本位』の意識から、

他者を喜ばせ、楽しませ、唸らせ、安心させることができたのか?という『審査側(見る側)本位』の意識に重心を傾けることができれば、CDたちとのクリエイティヴな共同作業は、充実した、楽しい行程に転じる。

そして、その瞬間、

そのわずか数分間の「共同作業」から、俳優と作品との、
類い稀な【縁】が導き出されていくのだ。

Photo:『SMASH』
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