1960年に起きたハリウッドのダブルストライキの詳細とは?

SAG-AFTRA(全米映画俳優組合)とAMPTP(全米映画テレビ製作者協会)の契約交渉が合意に結びつかず、長期戦になりそうなハリウッドのストライキ。だが、実は1960年にも同じように大規模なストが起こっていた。その当時の背景を米Varietyが報じている。

のちの大統領も問題解決のために尽力

1960年、ハリウッドで俳優と全米脚本家の組合、SAG(※SAG-AFTRAの前身。2012年に米国テレビ・ラジオ芸能人組合、AFTRAと統合)とWGAが同時にストライキに突入。映画俳優組合を率いてこのストを終わらせるべく尽力した一人が、のちにアメリカ合衆国大統領にまで上り詰めた俳優ロナルド・レーガンだった。

当時は業界にとって激動の時期だった。議会と司法省は、音楽レーベルとラジオ局経営者が関与したペイオラ・スキャンダルを調査、さらにはテレビの人気クイズ番組の八百長スキャンダルも起きていた。そんな中、ハリウッドにおける前回の大規模ストは、1960年1月17日に始まり、テレビ業界で155日間、映画業界では147日間続いた。1940年代のハリウッドにおけるストライキや労働争議はピケラインやその他の公的デモが要因となって激しかったが、1960年には脚本家や俳優のピケ活動はあまりなかった。1960年1月4日に始まった契約交渉に臨むにあたって、SAGは当時およそ1万4000人いた組合員のために、2つの主要な優先事項を明確にしていた。ちなみに、今日のSAG-AFTRAの組合員は16万人以上と、実に当時の10倍以上に膨らんでいる。

当時と現在のハリウッドの大きな違いは、団体交渉のプロセスがはるかに拡散していたことだ。かつてSAGとWGAは、映画・テレビの仕事について別々の契約を交渉しており、スタジオの交渉機関は別々だった。つまり映画製作者連盟は、映画関連の契約について最大のスタジオと製作グループを代表していた。一方、テレビ映画製作者連盟はテレビ番組の契約を取り扱っていた。過去40数年間、ハリウッドにおける組合契約が事実上すべてAMPTPを経由して行われてきたのとは対照的だ。

この頃の映画界の混乱に拍車をかけていたのは、組合が個々のスタジオやプロダクション、場合によっては中小プロデューサーの集まりと交渉することが多かったことだ。この時代のユナイテッド・アーティスツは、数多くのインディーズ製作者の配給会社であり、交渉代理人でもあった。そのため、業界関係者は作業停止や契約交渉の状況を常に把握することが難しくなった。最近は3年契約が業界標準だが、60数年前は3年から6年までと、契約によってかなり違いがあったことも状況をややこしくした。組合は、テレビ産業が台頭してきた1950年代を通じて、WGAと全米監督組合(DGA)が契約闘争で確保した計画に見合う年金と健康基金の設立を望んでいた。SAGはまた、1948年以降に製作された映画をテレビ局に販売することでスタジオに入る収益の一部を要求することに焦点を絞っていた。

当初、ハリウッドのスタジオは自社の公開されてまもない大作映画をテレビで放映するという考えに難色を示した。しかし、1950年代後半になると、苦境に立たされていたスタジオにとって、すぐ収入となるテレビでの放送というものは無視できないほど大きなものに。何らかの形で、ハリウッドの主要な組合はすべて「1948年以降」の戦いを経験するようになった。

ビッグカップルが開いた会合が分岐点に

そんな中、トニー・カーティス(『お熱いのがお好き』)とジャネット・リー(『サイコ』)というハリウッドを代表するビッグカップルが、ビバリーヒルズの自宅でピリピリムードの俳優たちのために会合を開くことを決め、業界は釘付けになった。トニーはこの会合の開催理由について、「私たちはギルド(組合)から交渉の詳細について十分な説明がなされていないと感じており、俳優たちは"私たちが何を求めてストライキをしているのか"に関してもっと具体的な説明を求めている」と述べていた。

SAGにとってこの会合は大きな勝利となった。1960年2月18日付の紙面には、"アクターズ・ミーティング、SAGを100%支持"という見出しが掲げられた。その会合でレーガンとSAG事務局長のジャック・デイルズは、ジョン・ウェイン(『駅馬車』)、デビー・レイノルズ(『雨に唄えば』)、シャーリー・マクレーン(『アパートの鍵貸します』)、グレン・フォード(『カルメン』)、ダナ・アンドリュース(『我等の生涯の最良の年』)ら約100人のスターに向けて2時間15分かけて話しかけ、Aリスト俳優たちの支持を固めた。議長を務めたのはデヴィッド・ニーヴン(『007/カジノ・ロワイヤル』)。ジャーナリストたちはこの日トニーとジャネットの家に招かれたものの、会合そのものに出席することは許されなかった。周辺の交通整理のためにビバリーヒルズ警察が召集されるほどの規模だった。

結局、SAGとAMPP(AMPTPの前身)はストライキ期間中に折衝を繰り返し、最終的にはあまり揉めることなく合意に至った。しかし、スタジオ側は強硬手段に出て、ストライキが正式に召集される前にもかかわらず、早い段階から「不可抗力」を言い訳に一部の作品を封切った。結局スタジオ側は、1948年以降に映画がテレビで放映された際に得られる収入の2%を俳優が受け取るというSAGの要求は吞まなかったものの、1960年1月31日以降に製作された映画がテレビ放映された時のロイヤリティ支払いシステムといったほかの主要な契約要求はすべて認めた。SAGは、年金と健康基金の正式設立に対するスタジオからの出資も確保した。

スト開始から半年後の1960年6月13日、脚本家たちは20世紀フォックス、MGM、パラマウント、ワーナー・ブラザース、コロンビア、ディズニーなどの会社で自由に仕事を再開することができた。そして映画の脚本家たちが和解した1週間後、6年間のテレビ契約が組合員の批准を得て着地した。この契約には、最低賃金の引き上げや、「脚本家は、国外で得た収入にも関わるようにする」方式を開発するための「事実調査委員会」を設置することを含むその他の利益が含まれていたという。ストライキを終結させた協定は、「労使関係の歴史において画期的な出来事である。私たちの業界の永続を目指す双方の責任者が、双方にとって有益な内容、つまり脚本家とプロダクションの収入を現在のレベル以上に増加させるというコンセプトの方式を作り上げたのです」と広報担当者は語った。結果的に、プロダクションや会社だけが儲かるのではなく、俳優や脚本家も収入が増える方式でまとまった1960年のストライキ。今回のストライキは一体どのような形で収束を迎えるのだろう。(海外ドラマNAVI)

参考元:米Variety