観る者を釘付けにする、クロースアップの魔法

 

ストーリーを伝える映像を作る上で、最も効果的といえる、TVドラマや映画に絶対欠かせない手法がある。もちろん視聴者や観客である皆さんは、この決定的な表現手法を飽きるほど目にしている。
ここから生まれている迫力の映像に病みつきになっているにもかかわらず、無意識に作品を楽しんでいるので、その大切さ、圧倒的な効果に、意外と気がついていないかもしれない。
だからこそ、注目してみたい。

その手法とは...
<クロースアップ(CLOSE UP)> だ。

クロースアップとは、接写(接近撮影)法のこと。被写体である人物や物に、グッと寄って近づいた映像を撮ることだ。このクロースアップのショットが、どんな場面の、どんなタイミングで、どんなセリフの言葉の間に編集で挿入されるかによって、伝わるものの強さや深みが大きく変わってしまう。
俳優にとっては、このクロースアップショットが、演技をしている際のある意味"見せ場"であり、自分が<寄り>で撮ってもらえると、非常にうれしいものだ。
しかし、<寄り>の映像は、シーン上ここぞ!という瞬間にのみ使われるので、必ずしも常にクロースアップを撮ってもらえたり、編集で使ってもらえたりするわけではない。
では、クロースアップの効果をより理解していただくために、TVドラマや映画のショットの典型的な撮影順序を解説しよう。

1 マスターショットを撮影する。
"マスター"といわれるだけあって、ある1場面のシーン全体を網羅して撮る長めのショットである。
この場合、映像のフレーム(被写体が撮られる大きさ)は風景全体が映る"ロングショット"のサイズか、人物の全身が入る"フルショット"になる。
"ロング"や"フル"で、セット全体や登場人物全員をフレームに入れるのだ。

2 次は"バストショット(もしくはウエストショット)"に移る。
人物の上半身や、胸から上の画を撮るわけだ。セリフを言ったり、聞いたりしている複数の人物たちは、大抵の場合バストかウエストショットを使った画で映される。
バストショットなら、1人か多くて2人の画。
ウエストショットなら、話している4~5人ほどを同時にフレームに入れることが可能だ。

3 最後にクロースアップショットを撮る。
人物の顔にさらに寄った画や、手元の画、小道具を接写した画を撮ることで、ディテール(詳しい描写)がきめ細やかに伝わる効果がある。
真っ赤に充血した眼や、流れ落ちる一筋の汗、渇いた唇を湿らす仕草...。
これらの描写はクロースアップでしか表現できない業だ。
顔だけではない、物を<寄り>で撮る効果も大きい。
たとえば、ロウソクの炎を接写すれば、そこに垂れているロウの長さで数分の時間経過を伝えられるし、灰皿の上に山となったタバコの本数を映せば、数十分から数時間の経過を表現できる。

時代劇のチャンバラにしても、"フル"や"ロング"の遠景で全体のアクションを映すばかりでなく、刀の刃の鋭さや、血走った眼や、汗まみれの手で柄(つか)を持ち直す時の指の動きや、斬られた際の傷口のショットを次々と挿入することで、単なる芝居仕立ての振り付けに見えた立ち回りが、生きるか死ぬかの瞬間の攻防に見えてくる。

クロースアップは物語のテンポをも変えてくれる。
ポン!と<寄り>の画が挿入されることで、リズムが良くなるからだ。
もちろんアップの画ばかり次々と多用し過ぎてしまうと、うるさい映像にもなり得るので注意しなければならないが、逆にずっと"フル"や"ロング"や"ウエスト"のショットばかり観させられても、退屈になってしまうことが多い。
クロースアップのショットとは、ほんのひと工夫の画である。
しかしこの、ひと工夫の画が絶大な効果を生む。

アメリカ産の映画やTVドラマの撮影/編集手法が、
「世界で最も優れている」
とはもちろん断言できない。
世界中には素晴らしい傑作が沢山あるからだ。
しかし、生き馬の眼を抜く競争の中で、この街の映像業界に君臨している人材たちが、
「観客を飽きさせない工夫を最も凝らしている」
という印象は、常々抱いていることだ。
そしてそれを感じさせる根拠の1つがクロースアップの使い方なのだ。

ハリウッド発の映画やTVシリーズには、大胆なクロースアップショットがところどころに積極的に使われている。『ER』などが火付け役となった医療ドラマの数々では、患者の生々しい傷口を容赦なく接写し、『24』のような冷や汗の流れそうな展開で惹き付ける危機スリラーでは、登場人物の顔に思いっきりアップで寄って表情の奥に動いている心理を活写している。
最近、日本でもリリース、そして放送開始もされた人気ドラマ『ターミネーター:サラ・コナー クロニクルズ』のような作品でも、目まぐるしく起こるアクションの中に、サマー・グロー演じる美少女型ターミネーターの顔が裂けた時の皮膚の下のメカニズムや、彼女が手に抱える銃のクロースアップショット等がふんだんに挿入されている。
細かな描写をするショットには、メイクにも、小道具にも、それだけ労力が費やされる。
実は一瞬の工夫にこそ、意外なほど時間と能力が注がれているのだ。
当然、製作費も跳ね上がる。

撮影のプロセスには大きく分けると、1:フル(ロング)、2:バスト(ウエスト)、そして3:クロースアップの3段階のショットがあると前述した。
予算が無い作品だと1と2を使用する割合が高くなる。

1ではシーンの場所や設定、登場人物の紹介などが一気に可能になる。
非常に便利なショットだ(しかし説明的な画でもある)。
2では人物と人物の関係性がよく理解できる。
この2つだけで、ある程度物語は伝わるので、時間とお金をそれ以上投資できない場合の作品は、ここまでで済ませてしまうことが多い。
ショット数(×テイク数)は少なければ少ないほど製作コストが安く上がるからだ。
しかし、1人の登場人物の心理を鋭く描くには、絶対に3のクロースアップが必要である!!
それがあってこそ、観ている我々はスクリーンやTV画面の中の人物に感情移入ができるようになる。
さまざまな映画やTV作品を注意して見比べてみて欲しい。面白い作品には必ず理由がある。
そして1つひとつのクロースアップにもちゃんと理由があるのだ。

いろいろな作品を観察していると、逆に<寄り>の画を必要としないジャンルがあることにも気づく。
"シットコム"、つまりシチュエーション・コメディがそれだ。
『フレンズ』や『チャーリー・シーンのハーパー★ボーイズ』に代表されるような、シットコム番組はクロースアップをほぼ使わない。いや、「使う必要がない」。
スタジオに観客を入れて、生で芝居を見せ、それを収録する作品はいわば"舞台中継"に近いシットコムでは、"シチュエーション(場面の状況)"を伝えることが最重要なので、全体をカバーするフルショットと、数人の関係性を同時に追えるウエストショット(もしくはもう少し大きいサイズのグループショット)が大事な核となる。
しかも、脚本のセリフがいかに面白く書かれているか、それをどう愉快に演じるかがなんといっても生命線なので、表面的な器用さや瞬間的なタイミングを判断する力が重要視される。
表情の奥に潜む心理を探る映像など、不要だ。

お笑いを例にするなら、日本の芸能である"漫才"を思い出してほしい。
漫才を、1人に焦点を絞ったクロースアップで撮影するマヌケはいないだろう。漫才は絶対に2人の関係性とそこから生まれる笑いを逃さず見たいものの代表だ。だから当然、撮影には2人をカバーするウエストショットがメインで、時たまフルショットが使われる。
シットコムでは、スタジオのセットの上で喜劇の舞台の如く俳優が動き回る。
大抵の場合、数台のカメラで俳優の身体や表情を追っている。あまりタイト(狭い画)に寄ってしまうと、大きく動く俳優を撮り損ねてしまう可能性がある。
数十秒毎に訪れる生の笑いの瞬間を的確に捉えるには、フルかウエストもしくはややルース(ゆるめで広い)なバストショットを使うしかないのだ。

こんな観点から見ても、シットコムとドラマはまったく別物であることがわかる。自ずと、俳優に問われる演技の種類や質や能力も変わる。アメリカの業界では、シットコムにはシットコムの、ドラマシリーズにはシリーズの、映画には映画の、スターたちがそれぞれ存在するのはそのためだ。

日本ではドラマを、シットコムのように複数のカメラ(3台以上)で同時に撮ってしまう場合が少なくない。1回のテイクで、一気にフル/ウエスト/バストを撮ってしまうのだ。このほうが時間の節約になる。しかし、この方法には大きな欠陥も存在する。舞台中継と同じく、特定の方向からしか撮影できない制限があるのだ。
当然、単調な画作りになってしまう。
そしてフルとウエストショットが多用されれば、微妙で繊細な演技をしても視聴者に伝わり難くなるので、自然と演出する側の意図も演じる側の表現もエスカレートしていく。センチ単位の動きはメートル単位になり、ミリ単位の表情の変化はセンチ単位に、徐々に大きいサイズになってしまうのだ。
つまり、単調な映像手法を補うため、大げさな演技に終始してしまう恐れがある。

この傾向は昼のメロドラマに顕著に現れている。
毎日放送される使命を帯びている昼メロは、常に時間に追われる撮影を強いられる。当然、じっくりと1カメラでショットを積み上げることは不可能だ。ただ昼メロは、これはこれで根強い人気を誇っているのだからそれでいい。
懸念するのは、夜のゴールデンタイム帯のドラマにもこのやり方が浸透してしまうことだ。
今、不景気とネットの台頭の煽りを大きく受けて、日本の地上波TV各局は軒並み広告収入の大幅減に苦しんでいる。予算が組めなければ、撮影時間は短縮される。時間が無ければ、複数のカメラで一気撮り!となる。
ドラマの真骨頂である、クロースアップでの描写に精力を注ぎ込むことは困難になっていく。
心の動きを捉えるような丁寧な描写の回数を製作側は手控えるようになり、
よって精魂を注いだ重厚なドラマの本数は激減するだろう。
いや、もうとっくにその時期に入っているのかもしれない。

おそらく今、日本のドラマ業界が思いきってでき得る対策は、視聴率の稼げる(ギャラの高い)人気者ばかりを揃えて起用することを控え、その分の製作費を脚本や演出や撮影に回すことだろう。
1つの番組に、スターは1人でいいのだから(『24』のように!)。
単なる人気者ばかりを揃えたショーケースなら、真のドラマファンは長いスパーンでは付いてこない。有名でなくとも(安く済むので)、クロースアップに堪える演技力のある無名や新人俳優を多く発掘し、撮影手法を工夫し、病みつきになる"面白さ"を追求するしかない。

ここ数年の日本映画の興行的成功も、大方はTV局が主導しているのが現状だ。
人気ドラマの映画化や過去のアニメの実写版がヒットを生んでいるのがほとんどである。もし、TVドラマ界が広告収入の大幅減でこのまま停滞を続け、ドラマ自体が衰退してしまったら、タッグを組んでいる日本映画界も再び不遇の時代に入ってしまうだろう。
絶対にそうなってはいけない。

ドラマにはドラマならではの、"撮り方"と"撮られ方"がある。
演技と、映像描写と、編集の、巧みな技の力が確実にそこにあるのだ。
この基本に立ち返れば、活路は見出せる。
いい"ドラマ(劇)作り"を決して失って欲しくない。

つい最近、クロースアップの威力を見せつけられた作品があった。
ロサンゼルスの劇場で、現在米国で公開中の映画『サブウェイ123 激突(The Taking of Pelham 123)』(コロンビア・ピクチャーズ)を観てみたのだ。
"Pelham 1 2 3"とは、NYの地下鉄の路線名。その路線を乗っ取って身代金を要求する武装犯人をジョン・トラボルタ、市営地下鉄の配車管制係をデンゼル・ワシントンが演じ、この2人の心理戦で物語の大半は進む。
映画の半ばで、デンゼル・ワシントンがこの犯人に脅迫され不本意な行動をとらされる場面がある。屈辱を噛み締める彼の2つの眼が、徐々に変わっていく様がクロースアップで捉えられている。
この演技と撮影の成果は圧巻だ。
2時間、真剣に観続けた映画の中で、このショットが一番鮮明に僕の心に残っている。
それほどにインパクトがある1ショットだった。

数ある撮影手法の中で、
最も準備と努力が求められる厳しいショット、
カメラを操作するクルーの眼も、指も、
俳優の眼も、皮膚も、心も、脳も、
究極の集中力が試される。
プラスαで魅せ、観る者を一気に引き込む、重要な手法。

贅沢な撮影だが省略してはいけない、
物語を "伝える" ために欠かすことができないショット、

それがクロースアップショットなのだ。

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【価格】¥9800(税込)
【内容】5枚組
【発売元】ワーナー・ホーム・ビデオ
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