アメリカ業界で、個性と魅力を競い闘うのがオーディションという場だ。
これを避けてゲストスターや主演の座にのし上がることはできない。
しかし日本人俳優たちがこの国の業界で評価され、活躍し、生き抜いていくには、魅力とはまた別の才能が問われてくる。
視聴者の方々の目には見えない、フル回転の頭脳と心の闘いがそこにあるのだ。
今回も引き続き、日本人俳優の可能性について語りたい。
皆さんはアメリカのTVドラマや映画を観て、
「なんで日本語を話せない俳優たちが日本人役を演じているんだろう...?」
と不思議に思ったことはないだろうか。
残念ながら、ハリウッドで<真の日本語能力>は問われていないのが現実だ。
たとえば、我々日本人がプロデューサーの立場で、日本の作品向けにロシアの俳優を雇うとしよう。
自分たちの耳で、この俳優のロシア語が上手いかどうか、的確に判断できるだろうか?
そんなことより、日本の撮影現場なのだから、このロシア人が少しでも日本語を正確に話して理解してくれることのほうが重要だったりする。撮影がスムーズに進む。もしセリフが日本語であればなおさらだ。ひょっとしたら本国人ではなく、ブルガリア人を連れて来てしまったかもしれない。それでもロシアっぽさが出て"さえ"いれば「まぁ、OK!」と思って起用してしまうことは十分あり得るだろう。
今、僕ら日本人俳優がハリウッドの地で闘っているのが、「日本人っぽさが出て"さえ"いればOK」という、まさにそれである。
米国生まれのアジア系アメリカ人が、日本人役のオーディションで、かなり間違ったカタコトの日本語でも、"日本人風"を堂々と演じきりさえすれば、受かってしまうということが未だに多い。
だからこそ、我々が特に日本人の役を演じる際には、圧倒的な<日本人の存在感>を放ち、観る人を魅了し、業界に強く印象づける必要がある。
"日本人を模倣した演技"に役を取られないために。
しかし同時に、アメリカで競り勝つためには、さらに重要なことがある。
この国の撮影現場をスムーズに進めるには、製作スタッフを完全に信頼させる英語によるコミュニケーションが絶対不可欠になってくる。カメラの前でセリフを(日本語でも英語でも)演じられるのは当然。
それ以前に、カメラの前に立たせてもらうまでの闘いで「この地でやれる職業人としての安定感」をアピールしなければ、まず通用しない。
たとえ日本語がカタコトでもアジア系アメリカ人が日本人役を取れるのは、"堂々と安定した仕事ぶりを見せる"のが巧みだからに他ならない。起用する側はリスクを負いたくないものだ。意思のあまり通じない"本物"より、安定した"プロの模倣" を選択してしまう訳だ。
どんなに演技力があっても、オーディションで少しでも演出が理解できていない様子や、振る舞いのぎこちなさを見せてしまったら負ける。
たった1つの単純な指示をうっかり聴き逃してしまえば、
「あ、こいつわかってないな。最初に言ったのに...」
と、演技力以前の問題で落とされてしまうのだ。
これまで多くの日本人俳優がこの壁にはねつけられて来たに違いない。
僕が07年秋に出演した『HEROES/ヒーローズ』でも、08年春のCWのシットコム『THE GAME』でも、撮影現場に通訳など用意されてはいなかった。
一瞬の指示も聞き落とすまいと、全神経を脳と耳と目に集中させて本番に臨むしかないのだ。
それだけではない。
僕らは逆の試練の立場にも立たされる。
移民の国で俳優をやる以上、僕らも別人種を演じなければならない機会があるということだ。
中国マフィア、韓国刑事、日系アメリカ人兵士など、いろんな役に出会う。
ここでは僕らのほうが"プロの模倣"で演じ切らなくてはならない。
一昨年10月、CBS放送のドラマ『コールドケース』のオーディションを受けた。迷宮入りした殺人事件を女刑事リリー・ラッシュが所属する殺人課が解決していく人気シリーズだ。ワーナーブラザーズのスタジオ内で受けたので、高揚せずにはいられなかった。
この番組のシーズン5に「Family 8108」という話がある。僕が受けたのは、その回の"ナカムラシンジ"という役だった。
オーディションに来ていたのはアジア系アメリカ人。日本人は少なかった。
1次の演技テストをパスし、翌日の監督面接にコールバック(多くは1次で外されるのが通常で、"コールバック"がかかるのは俳優にとってうれしいステップ!)を受けた。
キャスティング担当者から、極力発音を修正して2次面接に臨むように言われた。
翌日、いよいよ監督の目の前で演じる瞬間がやってきた。渡米後1本目のオーディション...さすがに緊張した。
1シーン演じ終わると、
監督がすぐさま僕にこう聞いた、
「君は今、日本語のアクセント(なまり)を入れて演じたのかい?」
ハッとさせられる。相当練習したのに...。
「いえ、僕は日本から来ました。日本人なんです。渡米して働き始めたばかりなんです」
と正直に答えた。
「そうか...。君のパフォーマンスはよかったよ、しかし今回の役柄はアメリカ生まれの家族の1人で、そこが物語のカギになるんだ。だから1人だけアメリカンじゃない、とはいかないんだよ」
と、丁寧に説明してくれた。
そう、この「Family 8108」は第二次大戦中に収容所に追いやられた日系アメリカ人の家族間で起きた殺人にまつわるエピソードで、僕がテストで演じた"シンジ・ナカムラ"は、日本人の血を汲んだ二世の"アメリカ人"でなくてはならなかったのだ。結局、このエピソードには日本人は1人も起用されていない。
歴史的に興味がある題材だったので、二世アメリカンにダメもとで挑んだが、初のアメリカ人役は残念ながら掴めなかった。
それでも、自分が日本人なのにもかかわらずコールバックがかかった成果に、少しだが光は見えた。
「このまま磨いていけば、いつかこういう役を獲得できる時が来る...」
1本目のオーディションでそう思えたことは幸運だった。
1999年、工藤夕貴さんが映画『ヒマラヤ杉に降る雪』で"ハツエ・ミヤモト"という役で主演として脚光を浴びた。
当時はハリウッド映画に主演したことばかりが取り沙汰されたが、彼女の真の偉業は、アメリカ映画の中で日系アメリカンとして、しかも主役を勝ち取って堂々と演じ切ったことだ。
このことをもっと日本のメディアは讃えるべきだったと思う。
彼女こそ、我々日本人俳優の世界の"野茂英雄"的存在であり、後にスマッシュヒットを続けて放った渡辺謙さんは"イチロー"的存在といえるのではないだろうか。
さて、もう少し外国の現場で働くための"言葉"の重要性について語ろう。
『海外ドラマNAVI』でもおなじみのデーブ・スペクターさん...。
彼が日本の業界にコメンテーター/文化人として長年にわたり君臨できるのはなぜか?
彼には
【圧倒的な世界や日本の文化の知識】
そして
【お茶の間の視聴者の耳に違和感を感じさせないくらいの安定したよどみない日本語力】
がある。
彼の代わりとなるアメリカ人識者/タレントは他に日本では見当たらない。だからこそ彼の力が求められる。デーブさんは、物心ついた少年期から日本に興味を持ち、日本語弁論大会で瞬く間に頭角を現した。当時から続けている、日々新たな言葉をノートに書き付ける習慣で貯まった単語帳は、もの凄い量だという。この努力あってこそ、あえて失笑を狙ってダジャレさえ言う余裕があるのだ。彼の語学能力は驚異的であり、本当に素晴らしいと常々思っている。
同じTV業界でもユンソナさんのような外国人人気タレントが識者/文化人として通用するのかといえば決してそうではないだろう。
単に「日本語が上手い」というのと、「政治・歴史・風俗・教育などに至るまで意見ができる」こととは、積み上げてきた土台が全く違うのだ。
これを、アメリカで闘う日本人俳優に当てはめるとすれば、
単に「演技が上手い」だけではなく、
単に「英語が上手い」だけでもなく、
【圧倒的な日本人としての、そして世界に通じる感情表現の深さと知識】
そして
【米国全土の劇場やリビングのTVの前にいる人たちの耳に違和感を感じさせないくらい安定したよどみない英語力】
この2つを身につけない限り、この国の観客を"ダイレクト"に感動させ、本当の意味でこの国の業界に長年"君臨"できることはないだろう。
出演後のインタビューや各報道メディアへの対応の際にも、この2つの能力がモノをいう。
俳優の仕事は、演じるだけではないのだ。
僕ら日本人俳優がTVに、スクリーンに登場して演じている時は、立ちはだかるいくつもの壁に打ち勝って、初めてそこに立っている。
皆さんにはそういう視点で、日本人俳優たちのこれからの挑戦を見ていて欲しい。