今回のコラムは、海外ドラマや洋画を観る際に、字幕と吹き替えのどちらを選ぶべきかとか、どちらかに軍配を上げようか、という一方に偏った話をするのではない。

なぜなら、どちらも必要だから♪

今でこそ僕は多くの作品をオリジナルの音声で見るが、子供の頃から吹き替えで楽しんだ作品も沢山ある。

さらに、俳優として作品作りの一端を担っている現在は、自分が演じた演技が声優さんの技術で吹き替えられることもあるし、また僕が逆に日本の作品(を英語)に、アメリカの作品(を日本語)に、吹き替えることもある。

そこで、双方、つまり「実写映像の演技」と「声の演技」に携わる立場から、客観的に "字幕版" の良さ、"吹き替え版" の良さ、またはそれぞれのデメリットについて語ってみたい。

まず、一般的な鑑賞談義から始めよう。

字幕か? 吹き替えか?
俳優の声が、どちらのほうがしっくりくるか?

という問いの答えは簡単、

"初めて見たもの(バージョン)が、よりしっくりくる"

僕は、大学生の頃、テレビ東京で放送されていた当時の人気シットコム『ファミリータイズ』(マイケル・J・フォックス主演)をいつも楽しみにしていた。英語の勉強に利用していたからだ。
まず、日本語吹き替え版で30分の物語を見て、その後に、二カ国語放送を録音したテープを何度も繰り返し聴いた。
英語で理解しようとしても、当時は原語でのジョークの面白さがなかなかつかめず、聴く度にもどかしい思いをしたものだが、でもほぼ同時に、日本語吹き替え版と原語版を聴いていたため、マイケル本人の声と、吹き替えを演じた宮川一朗太さんの声のどちらも楽しみながら見ていた。

"初めて見たもの" の威力は強大だ。
後年、他のテレビ局で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見た時、マイケルの吹き替えが完全に慣れ親しんだ宮川さんの声ではなく、違和感が大ありで、「なんで声が違う人なの!」とテレビに向かって文句を言ったのを覚えている(笑)。
声が変われば、作品どころか、その俳優の演技の「印象」をも変えてしまうのだ。はじめて見たイメージというものの衝撃は、これほどに大きい。

僕が幼少期に見ていた、NHK放送のドラマ『大草原の小さな家』も、当時は吹き替えのみで見ていたので、キャラクターたちの声はその時の声優さんたち以外に考えられない。
今、原語で見直したら、逆に新鮮な感動をもう一度得られることだろう。

では、
そういった個人的な体験による摺り込み効果についてはここまでにして、字幕と吹き替えについての客観的な考察に入ろう。

第1に「字幕版の良さ」!!

字幕版と吹き替え版は、"似て非なるもの" だ。
つまり、別の形のエンターテインメントである。

最初に「コミュニケーション」という点から考えてみよう。

通常(学問的に)、人間が他者に伝えるメッセージや気持ちの内容は、
言葉で伝わるものが全体の約30%前後、
残りの約70%は《表情/話し方/ジェスチャー/間やタイミング》など、
言葉以外の表現によって伝わっている、と言われている。

ある実験では、
顔の表情が約50%、
声調(声の質や高低、大きさ)とリズムが約40%、
そして発する言葉自体は10%に満たない、
という学術的な結果も導き出している。

注)上記の結果は、主に「二者間のコミュニケーション」に関する見解であり、講演/会議/授業/朗読といった特定のテーマや情報を伝えるやりとりの場合は、もちろん上記の数字とは結果が異なってくるはず。

これをドラマや映画に当てはめて考えて見よう。

仮に、
二人、もしくは数人の登場人物の会話のシーンで、視聴者や観客に伝わる感情やメッセージを100として、

A《感情的な表情、目の動き、アクションや仕草》が40%、

B《セリフの話し方、声の特徴、沈黙などの間》が30%、

C《脚本上の言語情報》が30%、

としてみよう。

映画やドラマは優れた脚本ありきなので、"C" の《脚本:セリフによる情報》は非常に大切。
これがシーンの骨格となる。

しかし、視聴者や観客にそれを伝える体現者は、その内容を演じる俳優である。

"A" の《表情や身体的アクション》
"B" の《話し方、声の響き、タイミング》

は、「表現」というアートの血であり、肉である、と言えるだろう。

この、血肉である"B" の《話し方、声の響き》のオリジナルの表現を別のアーチストの表現のバージョンに置き換えることがすなわち

"吹き替え"

である。

自分の心情を、カメラの前で極限まで表現しようという俳優たちの
《話し方、声の響き》を、他者のそれと入れ替えたらどうなるか?

それは当然、「別の個人の表現」に変わる。

ジャック・ニコルソンの怪演の、声を変えたら?
アル・パチーノの名演の、声を別の人が演じたら?
映画『THIS IS IT』のマイケル・ジャクソンの歌と、リハーサル時に彼が発した一語一語の声を、誰か別のアーチストが演じたとしたら?
たとえその声の代役が名だたるアーチストだとしても、その表現は、オリジナルと同じものにはならない。

この図式は、外国と日本を逆に置き換えてみればもっとわかり易い。

黒澤明監督の作品に登場する三船敏郎さんのキャラクターをイギリスや中国の俳優や声優が演じたら?
三船さんの腹の底から唸りを上げるような迫力はまず生まれない。
また、先頃残念ながら他界された大滝秀治さんのような、味のある声が伝える表現も、別人の声や言語で絞り出せるものではない。
日本人としては、
「日本の作品は、日本語(日本文化)そのままのニュアンスで見て欲しい」
と感じるのが人情というものだろう。

演技とは、セリフの部分だけでなく、
自分の心の底からの叫び、すすり泣く時に漏れる息、苦悶で喉がかすれる音、呼吸、すべてを含む。
なので、いかなる音声も厳密に言えば、完全なる再現は不可能だ。

だから、俳優本人の希望としては、
視聴者や観客の皆さんには、「初めて見る時の衝撃や感動」は、役の俳優自身が撮影現場で実際に演じた、オリジナルの音声であって欲しい
という個人的な思いは、ある。

皆さんがご存知の業界用語に、「アフレコ」という言葉がある。
アフレコとは、撮影現場で何らかの理由によりセリフがきれいに録音できていなかった際に、後日、録音スタジオで録り直すという作業だ。
アフレコは、俳優泣かせの責務である。
大抵の場合、撮影後に何週間も経ってから急に呼び出され、ある場面のセリフを録音ブースで、初めて会うスタッフに囲まれ、撮影時のセリフと状況を思い出し、声の出し方/ボリューム/間/息を吐くタイミング/相手役との距離感など、細部にわたって全く同じように、

『完全なる臨場感の再現』

に挑戦しなければならない。

これは至難の業だ。

しかも、再度録音する声の演技が、撮影時のオリジナルの自分の演技を凌駕するか、下回るか、そのクオリティーの優劣は、自分が一番よくわかる。

99,9%、自分自身でもオリジナルの音声を、超えられない。

撮影時の、緊迫感や躍動感や必死さは、たとえ自分自身であっても再現などできないものなのだ。
僕は、『硫黄島からの手紙』でも『HEROES/ヒーローズ』でも『TOUCH/タッチ』でも、その難しさを録音スタジオで体験した。

映画『ダークナイト』トリロジーや『インセプション』の監督クリストファー・ノーランは、俳優にアフレコをさせることをなるべく避けて、現場での生の声をできる限り生かすそうだ。理由は明白。再録したら、微妙な表現の中で失うものが大きいからだ、と彼は語っている。

映像上の演技とは、
その俳優本人が、たった1度だけ見せることができた表現であり、
フィルムやビデオに刻まれた、一瞬の奇跡なのである。

★続きは<後編>で。