人気ドラマは練り上げられた脚本から生まれる!

 

「まず秀逸な脚本があって、次に絶妙な配役。それで作品の成否は決する!」
これは、アメリカ業界の誰もが認識している"必須条件"だといって間違いない。

日本では、映画/TV/舞台用の完成台本が表紙付きで閉じられた状態で俳優やスタッフに手渡される。それに対し、アメリカの台本がセリフを印刷した用紙を重ねて端をピンで留めているだけの製本されていない状態であることをご存知だろうか?

実はここにストーリー構築に関する、手法の大きな違いが存在する。

質の良い紙で、製本されている台本は、手にした時に気持ちいい。日本の作品の出演時、いかにも "台本" という装丁の冊子を手渡されると、「仕事を、役を、獲得した!」という実感が湧いて気分の良いものだ。早ければ出演の1カ月前~数週間前には手に入る。制作サイドから台本をもらうといつもワクワクしたものだ。

一方アメリカでは、小さな英字がひたすら並んだ、コピー用紙の束だ。
左端に3つ穴があいている、ドサッとした印象の本だ。
なんとも味気ない。

しかし、表紙が付いて製本されているかどうか、製本が早いかどうか、紙の質が良いかどうか...。 冷静に考えてみれば、これらは "ストーリー" の良さ、面白さとは一切関係がない。

昨年の秋、『HEROES/ヒーローズ』シーズン2の出演が決まると、まず日本に居る僕のもとへメールで出演シーンのページが届いた。数日後、改訂版のページが届く。セリフが若干変わっていた。ビザが発給されるとすぐにロサンゼルスへ飛んだ。

撮影8日前、すでにシーンは3度変更されていた。
英語を完璧に覚えなければならない立場の僕は、改訂版が届く度にため息が出た(笑)。

そして翌日、さらに変更を加えた台本が新たにまるまる1冊また届いた。
呆れるというか、圧倒される思いだった、「ここまでやるか...」と。

覚えているだけでも、9月25日から10月2日の間に5度、台本のセリフの細部が繰り返し変更されている。

新しく変えられるページは、イエローやピンクやブルーやグリーンの紙に印刷され、送られてくる。台本のピンを外し、これら改訂版を古いバージョンと差し替えればいいのだ。最初は真っ白だった台本が、撮影直前にはカラフルな虹色になっていた。

度重なるセリフの変更は、俳優泣かせではある。しかし、ギリギリの段階まで改善をいとわない、この姿勢が徹底している。少しでも面白くなるように、つじつまが合うように、脚本家がプロデューサーたちの要求に毎日毎時間対応している姿が伺える。

決して台本を製本しない、綴じないスタイルは、このための必然の姿なのだ。

起用する脚本家の数もまた凄まじい。2時間ものの映画なら脚本家は "1人" ということが通例だが、"1話完結型" でない、発展型タイプのTVドラマ番組を例に挙げれば、『24-TWENTY FOUR-』なら現シーズンまでに19人、『LOST』18人、『HEROES』12人のライター/クリエイターたちが、壮大な物語を、全員がコンセンサスをとりつつ、多くの伏線を緻密に絡ませながら大きな1つの流れを紡いでいる。これを日毎に、撮影中にさえ書き換えて進行するのだから、その知的作業は並外れたものがある。

そしてもう1つ、
物語の作り方に関して、シンプルかつ最も重要で"エンターテインメント的" といっていい方向性がある。それは、【視聴者/観客に絶対に先を読ませない】ということ。この1点に尽きる。

「そんなの当たり前でしょ?」
と皆さんにいわれてしまいそうだが、注意して捉えてみると様々な特徴が見えてくる。

たとえば日本では、観客や視聴者は <よく知っている物語、人物、展開>を好む傾向がある。
人気長寿番組を見れば、その傾向はよりハッキリする。『水戸黄門』や、近年では『ごくせん』など、視聴者が安心してみられるドラマ群は、最後に悪を懲らしめるというフォーマットが毎回変わらない。"忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入り)" の題材が毎年年末にドラマ化されたり、"信長/秀吉/家康" などの有名な戦国武将が主人公や脇役として何度も映画/TV作品に登場するのも同じ理由からだろう。そこには、歌舞伎や大衆演劇などに根ざした、期待通りのクライマックスを望んでいる人々の心が反映されている。
観客が叫ぶ、「待ってましたっ!!」
という文化が、作劇法に深く影響しているのだろう。"同じ展開" を積極的に受け入れている、といっていい。著名なマンガ原作や小説原作が次々とドラマ化されているのも、すでに人気のストーリー展開と結末なら、確実に支持されるだろうというプロデューサーたちの判断があるからだ。

一方アメリカの観客や視聴者は、まるで自分たちが批評家であるかのように、脚本の善し悪しに手厳しい。作品に、変化やサプライズを常に求める。予想を(いい意味で)裏切るストーリーを期待しているのだ。もちろん、同じパターンとしての"勧善懲悪" 作品も多くあるものの、大抵の作品では一体誰が悪玉で誰が味方なのかが最後の最後までわからなかったりする。

たとえば、この夏全米の興行記録を塗り替えた『ダークナイト』はよく知られているコミック・ヒーローであるバットマンのシリーズだが、実際の物語の主軸は敵役である "ジョーカー" であり、バットマン自身も正義のシンボルなのか、悪を増長させる一因なのかが判断し難いように描かれている。
決して、気持ちの良いヒーロー映画ではない。観た後に何かが重くのしかかる話だ。それでも大ヒット作品となった。出来映えは圧倒的である。

ドラマの脚本にも常に工夫が凝らされる。
『24』では主人公ジャック自身が合衆国政府や秘密機関の敵に回ってしまうことが度々あり、ハラハラさせる。
Dr. HOUSE』の主人公ハウスは、他の真面目な医者たちから見れば厄介者であるが、他者を凌駕する洞察力と知識を持っているキャラクターだ。複雑な病気や医療事情が絡むストーリーは、視聴者の知性を常に刺激する。
『HEROES』の第3シーズンは "VILLAINS"(悪役、悪党) というサブタイトルが付いている。放送が9月後半にスタートしたばかりだが、すでに誰が本当のヒーローで、誰が悪なのかが全くわからない。

日本国内のメディアや批評家が「ハリウッドはもうアイデアが枯渇している」という論調で語るのを目にすることがよくある。しかしそれは真実だろうか? 日本で近年ヒットしているハリウッド映画は、『スパイダーマン』『パイレーツ・オブ・カリビアン』や『ハリー・ポッター』のような若年層向け娯楽大作シリーズに傾いている。複雑な構成で重厚なテーマの作品が今ではヒットしにくくなったことは否めない。それゆえ日本市場に届くのは、知名度が高く宣伝の仕掛けやすい、ライトな味付けの作品ばかりになっている。

しかし、アメリカの物語作りの現場は、今なお驚異的にクリエイティヴである。リメイク作品も多く見られるものの、"マンガ原作" 一辺倒などということもなく、TVでも映画でも<オリジナルのストーリー>は次々と生まれている。

独自の舞台設定、登場人物の立場の逆転、あっと驚くクライマックス...
難題を解き明かす仕組みが、面白さのベースである。
作品の序盤で結末が読めてしまうということは決して許されない。

"知らない""わからない" ことがあるから、人は探索や冒険に出る。
はじめから答えがわかっているクイズやパズルを、人は楽しめないものだ。

"考える" 機会を観客/視聴者に与える。

ハリウッドでは、これこそが脚本のカギであり、ヒットの源泉なのだ。