1980年代に一世を風靡したハリウッド俳優と言えば、必ずや彼の名前が挙がることだろう。親しみやすい演技とキュートな表情の数々で、常にわれわれを魅了してきた彼の名前は、マイケル・J・フォックス。言わずと知られたタイムトラベル映画の金字塔『バック・トゥ・ザ・フューチャー』やコメディ・ドラマ『ファミリー・タイズ』などで人気を博したマイケルは順風満帆な俳優人生を送っていた。しかし、キャリア最盛期に突如患ったパーキンソン病の影響から、残りの俳優人生は10年余りと宣告されてしまう。常人では考えられない困難に直面してしまったマイケルだったが、決して悲観することなく、病と共に歩み続けることを決意する。
そして、パーキンソン病発覚から約30年が経過した現在でも俳優としての仕事を続けているのだ。そんなマイケル・J・フォックスのこれまでのキャリアを振り返ってみよう!
■ブレイクを果たすまでの苦難の道
マイケル・アンドリュー・フォックスは、1961年6月9日カナダのアルバータ州エドモントンで、元軍人で警察官の父と事務員の母の間に生まれる。マイケル・J・フォックスというのは芸名であり、Jの文字は敬愛する個性派俳優マイケル・J・ポラードから付けられたものである。
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ミドルスクール(日本でいう中学校)時代から演劇に興味を抱き始め、ハイスクール(高校)に入学すると同時に、俳優としての仕事を得るようになっていった。昼間は学校へ通い、夜は地元の劇団で舞台に立つという日々を送っていたために、学校の成績は急降下してしまい、のちにハイスクールを退学することを決意。意外にも元軍人の父はこの決断を好意的に受け入れ、マイケルを映画の都ロサンゼルスへと送り届けるのだった。
すでに1978年にカナダのTVシリーズ『Leo and Me(原題)』で俳優デビューを飾っていたマイケルにはロサンゼルスへ移ってからも、ある程度の仕事が舞い込んできた。しかし、当時のハリウッドでは映画俳優組合の長期的なストライキが起こり、仕事を一切できない状況にまで追い込まれてしまう。
さらに追い打ちをかけるかのように、レギュラー出演していた『Palmerstown,U.S.A.(原題)』が打ち切りになってしまい、生活ができない状態にまで追い込まれてしまった。通話料金でさえ支払うことができず、電話も止められてしまったことから、近所のフライドチキン店の前に設置された公衆電話を自身のオフィスにしていたという。マイケルの俳優人生の幕開けというのは、まさに苦難の連続だった。そんな時だった、衆電話の電話口から朗報が届く…。のちにマイケルにとって最初の出世作となるコメディ・ドラマ『ファミリー・タイズ』への出演が決定したのだ。
■『ファミリー・タイズ』でお茶の間の人気者に!そして、世界的スターへ
1982年より米NBCにて放送がスタートした『ファミリー・タイズ』は、元ヒッピーでリベラル派の両親と保守派の息子アレックスが、毎回ドタバタを巻き起こす大ヒットシットコムである。マイケルは、エリート銀行員をひたむきに目指すアレックス・P・キートン役に抜擢されたわけだが、実は、当初アレックス役は1981年にブロードウェイ上演された舞台「トーチ・ソング・トリロジー」で好演し、トニー賞を受賞したマシュー・ブロデリックに決まっていた。
ところが、長期にわたるTV出演を拒んだマシューが同役を蹴ったことで、マイケルにチャンスが舞い込んできたのだ。同作の製作総指揮を務めたゲイリー・デヴィッド・ゴールドバーグが、マイケルの出演を反対するNBCの上役に対して熱心なアプローチをかけ決まった。結果的にゴールドバーグの判断は正しかったことが証明され、『ファミリー・タイズ』パイロット版の公開収録で熱狂的なリアクションを獲得して魅せた。こうしてマイケルは、お茶の間の人気者となり、同作でエミー賞コメディ部門主演男優賞を1986年から3年連続で受賞するほどの高評価を得た。
これほどの人気番組に出演していれば、当然のことながらハリウッドの業界人が放っておくはずがない。1985年、マイケルはアメリカのお茶の間を飛び出し、世界的スターになる未来への切符を手にする。
■『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で一世を風靡!
1985年に公開された映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、言わずと知られたタイムトラベル映画の金字塔として映画史に燦然と輝いている名作だ。日本でも公開当時から抜群の人気を誇る作品であるが、主演を務めたマイケル・J・フォックスの人気も凄まじいものだった。
実は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』への出演も幸運が重なって実現したのだ。当初、映画『マスク』の少年役で注目を集めたエリック・ストルツという若手俳優が主演する形で撮影がスタートした。ところが監督のロバート・ゼメキスが、俳優を変えるべきと判断し、マイケルに白羽の矢が立ったのだ。製作総指揮を務めるスティーヴン・スピルバーグは、もともと『ファミリー・タイズ』のファンだったことから、マイケルを『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主演に抜擢しようと考えていた。しかし、『ファミリー・タイズ』の撮影がまるまる1シーズン分控えていたために、製作陣は手放すのを渋り、断りを入れるしかなかった。その後、スピルバーグは再びマイケルにオファーを出し、『ファミリー・タイズ』の撮影も残りわずかだったことから、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』への出演が実現したというわけだ。
ともあれ、TVシリーズと映画の撮影を掛け持ちするのは困難を極めたといい、食事の時間や寝る間を惜しんで、当時は撮影に参加していたという。その努力が報われてか、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は超が付くほどの大ヒットを記録し、シリーズは3部作となった。マイケル自身も、それに比例するかのように、ますます俳優としてのネームバリューを高めていき、ハリウッドきっての人気俳優としての地位をほしいままにするのだった。
■俳優としての命は残り10年…人気俳優に突きつけられた現実
1990年、順風満帆な俳優人生を送るマイケルを病魔が襲う…。ある朝、左手の小指の震えで目が覚めたマイケルは、当初、二日酔いか何かが原因だろうと気に留めていなかった。しかし、この震えがなかなか収まらずに、症状が悪化しているように感じたマイケルは医師に相談。診断の結果は、若年性パーキンソン病。俳優の仕事は、あと10年はできるだろうと告げられる。働き盛りの30歳の俳優にとっては、受け入れ難い真実だっただろう。
しかし、マイケルはこの真実を憂うことなく、むしろ人生における”贈り物”だと考える。「パーキンソン病にかからなければ、こんなにも深く豊かな気持ちにはなれなかったはずだ。だからこそ僕は自分のことを幸運な男だと思う」と著書『ラッキーマン』の中で綴っている。そして、パーキンソン病の研究助成活動を目的とする「パーキンソン病研究のためのマイケル・J・フォックス財団」を設立。2003年には前述の著書『ラッキーマン』を出版し、これが日本をはじめとした世界的ベストセラーとなった。
作中では自身の経験談を織り交ぜながら、その人柄をうかがわせるウィットに富んだ文脈で、類まれなる才能を発揮している。のちに「いつも上を向いて 超楽観主義者の冒険」(2010)、「マイケル・J・フォックスの贈る言葉 未来へ踏み出す君に、伝えたいこと」(2011)の2冊を出版している。
■『スピン・シティ』への出演と現在
パーキンソン病が発覚してからの数年の間も、マイケルは俳優として数多くの映画に出演すると同時に『スチュアート・リトル』シリーズなどで声優としての才能を発揮。そして、1996年より『ファミリー・タイズ』のゲイリー・デヴィッド・ゴールドバーグがクリエイターを務めるコメディ・ドラマ『スピン・シティ』に主演する。
同作はパーキンソン病を診断されていたことや家族と過ごしたいという考えから、撮影はマイケルの要望でニューヨークにて行われた。『ファミリー・タイズ』の名コンビが復活したこともあり、同作は大ヒットを記録。史上最年少でニューヨーク市長補佐となったエリートであるマイケル・フラハティ役を演じたマイケルは、1997年から1999年まで3年連続でゴールデン・グローブ主演男優賞を受賞し、2000年にはエミー賞も受賞した。その後、2001年に降板してからは、主に声優としての仕事やTVドラマへのゲスト出演を続けていく。
病に侵されてもなお強い心で、俳優として生き続け、気づけば「あと10年」と言われた段階から30年が経過しようとしている。ハリウッドの”小さな巨人”は、これからも輝き続けることだろう。
(文/zash)